戦前の路線図でたどる、外地の旅〜王道楽土の夢の国・満州と、台湾・樺太〜

かつては東京からパリまで、一枚の切符で旅をしていた…こう聞いたら、あなたは驚きますか?戦前は、東京でヨーロッパまでの普通乗車券を買えました。東京から下関、釜山を経て、満州経由でヨーロッパへ、というルートが一般的だったそうです。

作家の林芙美子さんも、昭和6年にこのルートでパリまでの鉄路の旅をしています。2週間の汽車の旅で、現在のお金にして約110万円かかったそうです。今回は、そんな鉄道黄金時代の戦前の鉄道と、その路線図について、見ていきましょう!

満州の歴史

満州国はどこにあったのか、すぐ答えられる人は、あまりいないのではないでしょうか?

満州国は、現在の中国東北地方の遼寧省、吉林省、黒竜江省にありました。朝鮮半島の北西部に位置し、1932(昭和7)年に成立しました。この地域は万里の長城の外側であり、辺境の地域だったため、満州族やロシア帝国、日本の関東軍など、さまざまな勢力が入り乱れました。広さは日本の約3,5倍ほどでした。

ロシア帝国は、1891(明治24)年にこの地域を侵略し、シベリア鉄道の延伸を清国に要求しました。その後、露清密約が結ばれて、東清鉄道の建設が許可され、1904(明治37)年、シベリア鉄道と東清鉄道が接続しました。これにより、アジアとヨーロッパが一本の線路で結ばれます。

その後日露戦争が勃発し、日本側が勝利した後の1905(明治38)年、ポーツマス条約が結ばれたため、ロシア帝国から日本に、東清鉄道の長春以南の南満洲支線が譲渡されることになりました。

1906(明治39)年、この路線の運営を担う南満州鉄道株式会社が設立されます。満鉄は、鉄道事業のほかにインフラ整備、教育、医療など、さまざまな分野を担っており、従業員は40万人に上りました。

満鉄の初代総裁は、台湾総督府の民生長官を務めていた後藤新平です。後藤新平は、「生物学の原則」に基づいた統治法で、台湾現地の人々の信頼を得ていました。経済とインフラを強力に推し進めるその手腕が、満鉄に必要だったのです。

満州国の奉天、現在の瀋陽市の街は、道幅36メートルの道路や直径90メートルの円型の公園が中心部にある、近代的な都市ですが、この奉天の開発を進めたのも後藤新平でした。後藤は後に東京市長として、のちに関東大震災後の東京の都市計画にも関わりますが、彼の先見性は、この時から存分に発揮されていたのです。

1910(明治43)年には、日本で海外への切符が買えるようになり、1913(大正2)年になると、パリやロンドンまで一枚の切符で旅することが可能になりました。現在よりも、ヨーロッパへの鉄路の旅が身近だったのです。

この満州の地に、最初に線路を敷いたのはロシア帝国ですが、1524mmの広軌で鉄道網を広げていたため、日本が管理するようになってから、一度狭軌に変更しました。しかし大陸の他の鉄道との接続の必要から、すぐに標準軌に改軌しています。

そして、大陸を走るに相応しい特急列車として生まれたのが、超特急あじあ号です。あじあ号は、1934(昭和9/大同4)年から1943年(昭和18/大同13)年まで、日本の租借地の大連駅と、満州の哈爾濱(ハルビン)駅間を走りました。パシナ型と呼ばれるこの蒸気機関車は、大出力・高速で、流線型の特徴的なカバーを付けていました。

動輪径は2mもあり、紺色の塗装で、グリーンの客車を牽引して走りました。最後尾の客車は曲面ガラスの展望車で、ゆったりとしたソファーが設置されていました。食堂車の給仕は美しいロシア人女性で、当時の日本国内の超特急つばめより速い最高時速130kmで満州の大地を走りました。また、当時の蒸気機関車としては先駆的だった冷暖房も完備されていました。

満鉄の沿線には、後世に残るような大型駅舎が多数建てられました。日本では無名の建築家が、抜擢されています。それでは、満鉄の歴史的な駅舎について、みていきましょう。

満鉄連京線の始発駅である大連駅は、2階建ての鉄筋コンクリート建築です。1937(昭和12)年に竣工し、満鉄の太田宗太郎が設計しました。上野駅の立体構成と似ており、現在も原型を保っています。

連京線の奉天駅は、日露戦争の奉天会戦の戦場跡に建てられた、赤煉瓦製の豪壮な駅舎です。1910(明治43)年に竣工しました。中央にドームがあり、左右にウイングを広げる姿は、同時代に作られた東京駅とよく比較されます。満鉄の太田毅が設計しました。

連京線の新京駅は、印象的な三角形のペディメントを備えています。東清鉄道との国際停車場で、後に満州国首都の玄関となりました。1914(大正3)年の竣工です。市田菊次郎が設計しましたが、建て替えられたため、現存していません。

撫順線の撫順駅は、直線を基調とした、コンクリート製ゼセッション建築の駅舎です。満鉄を支える撫順炭鉱の重要な駅でしたが、設計者は不明です。満鉄駅舎の傑作と言えるでしょう。

平斉線・斉北線の斉斉哈爾駅は、東大の安田講堂を思わせる、豪壮なゴシック風の駅舎です。1936(昭和11)年には、ヤマトホテルも入居しました。現在も新駅舎に隣接して現存しています。北満の重要な拠点にあった、とても風格のある建物です。

浜綏線・図佳線の牡丹江駅は、北満の要衝にありました。直線と曲線の造形が美しいモダニズム建築ですが、ソ連の参戦で激戦地となりました。

安奉線の秋木荘駅は、森林地帯にあった木造の丸太組の駅舎です。一帯は林業が盛んでした。急傾斜の屋根を持つ丸太造りでしたが、日本にはない造形で特徴がありました。

中国の東北地方には、ほかにも満州国時代の日本の建築物が残っています。多数の民族が居住していたため、ロシア正教の教会や、チンギス・ハンの聖廟も建立され、民族の共栄を図りました。一方的な支配は反発を生むだけだという後藤新平の理念が、ここでも生かされているのです。

台湾の歴史

次に、台湾の鉄道をみてみましょう。台湾の鉄道は、まず清朝が敷設しました。日清戦争を経て、台湾が日本統治下に入ると、台湾の経営のために鉄道整備が欠かせないと考え、1895(明治28)年6月に台湾鉄道線区司令部を、8月には臨時台湾鉄道隊を設置しました。

軌間には日本と同じ1067mmが採用され※、西海岸を南北に貫く路線が建設されました(※一部は762mmを採用)。1908(明治41)年には基隆-高雄間404.2kmが全通し、車両には、日本の新橋―横浜間で活躍した機関車が持ち込まれました。

このほかに軽便鉄道規格の台東線(東花蓮港-台東)や、阿里山森林鉄路なども敷設し、台湾の近代化を進めるのに大きな役割を果たしました。この台湾にも、日本人が設計した駅舎が多数残っています。

例えば、台中の南を走る支線、集集線の集集駅は、1922(大正11)年に建てられた、総ヒノキ造りの木造駅舎です。1999(平成11)年の921地震で一度崩壊しますが、日本の優美な駅舎を保存したいとの声が高まり、修復されました。硬券やダッチングマシンも見られる、マニアにはたまらない駅となっています。

また、縦貫線である海岸線には、建設後100年を超えた駅舎が残っています。談文駅、大山駅、新埔駅、日南駅、追分駅は、「台鉄海線五宝」と讃えられています。

大型ターミナル駅にも、日本統治時代に建てられ、今でも現役で活躍する駅があります。中でもドイツ風バロック建築の新竹駅と赤煉瓦が美しい台中駅は、名建築として現在も愛されています。

台南駅は、コロニアル風の独特の建築ですが、戦前は駅舎内にホテルを擁していました。似たスタイルの駅には、嘉義駅があります。彰化県の二水駅、苗栗県の銅鑼駅、造橋駅も美しい駅舎です。現役で使われている日本式の木造駅舎も、いくつかあります。台南市の後壁駅、保安駅などは、行楽客に人気です。

高雄駅は、すでに現役ではないものの、歴史建築として保存されています。昭和期にしか見られない帝冠様式の駅舎は、現在は高雄願景館という公共スペースとして使われています。新駅舎建設のため、なんと建物を解体せずに並行移動して、保存にあたりました。

台湾の人々が、これほどまでに日本の統治時代の建物を大切にしてくれるのは、とてもありがたいことです。先人の真心が伝わったと言えるのではないでしょうか。

樺太の歴史

最後に樺太の鉄道の歴史を見てみましょう。樺太は、日本の海外領土の中で、唯一既存の鉄道がない場所でした。それ以前はロシアによる流刑地でした。そのため、日本は豊原(ユジノサハリンスク)を樺太開発の根拠地と定めて、まず大泊との間に軍用の軽便鉄道を建設し、やがて樺太鉄道局として独立させました。

樺太千島交換条約で、一度はロシア領になりましたが、その後ポーツマス条約で北緯50度以南が日本の領地になったため、鉄道が順次敷設されました。1945(昭和20)年には全長848.7kmまでに達しています。

この樺太の駅舎として有名なのは、樺太東線の豊原駅です。樺太鉄道局の中核として、1925(大正14)年に建設されました。木造で、一部コンクリート造りです。マンサード屋根が印象的なこの駅舎は、構内に車両工場がおかれていました。ソ連の爆撃で破壊され、現存していません。

樺太西線の真岡駅は、1932(昭和7)年に完成した、樺太では珍しい鉄筋コンクリート造りの近代的な大型ターミナルです。北の港湾都市の駅として、小樽駅にも影響を与えました。1992(平成4)年に解体されました。

宮沢賢治は、1923(大正12)年に樺太を5日間旅行しました。最愛の妹トシを亡くした後の傷心旅行で、「樺太鉄道」という詩を残しています。最果ての物悲しい様子が伝わる、寂しい詩です。機会があれば、ぜひ読んでみてください。

戦前の鉄道路線図の魅力

戦前の鉄道路線図の最大の魅力は、やはりかつて実在した満州や関東州などを、実際に旅した気分になれるところでしょうか。歴史でしか知らない街や国が、かつて確かに存在したという事実。このことが、はっきりと重みを持って伝わってきます。

旧満州国の奉天、現在の瀋陽市にある瀋陽鉄路陳列館には、勝利7型と改称された超特急あじあ号・パシナ型757号機が展示されています。あじあ号に関する資料は、全て終戦時に消失したため、実際に目にできるのは瀋陽鉄路陳列館のみです。

短命に終わった満州国ですが、大連にある旧三越百貨店などのように、まるで日本にいるかのように思わせてくれる建造物もたくさん残っています。古い地図や路線図を片手に、満州国時代の建造物を巡ってみるのも、旅の良い道しるべとなるでしょう。

台湾のように、距離的にも近い国なら、さらに訪問しやすいかもしれません。台湾には、硬券やダッチングマシンなど、日本と共通する鉄道文化もたくさん残っています。親日国でもある台湾なら、より気楽に鉄道の旅を楽しめるのに違いありません。

樺太に渡航することはさすがに難しいのですが、北海道の稚内に樺太記念館が建立されています。1905(明治38)年から1945(昭和20)年までの40年間、樺太は確かに日本の領土でした。そこに生活していた人々の資料の展示を通して、彼らの生活の様子を垣間見ることができます。

戦前の鉄道路線図を蒐集する魅力とは?

それでは、戦前の満州や樺太・台湾を含む路線図の蒐集の魅力について、みていきましょう。戦前の路線図は概ね3,000円前後で流通しており、安価なものだと1,000円台のものもあります。文書などの資料には高価なものもありますが、満州国単独の路線図や当時の旅行ガイドなどは、比較的手頃に収集できると言えるでしょう。

新潮社から発売されている、「日本鉄道旅行地図帳」の歴史編成版のように、復刻版の路線図を入手する方法もあります。このシリーズには「満州・樺太編」と「朝鮮・台湾編」があり、詳しい路線図と駅名が掲載されています。

当時のことを取材した書籍や旅行記としては、川村湊著の「満州鉄道まぼろし旅行」(文春文庫)という本があります。当時の時刻表と路線図を使って、まるで実際に旅をしているかのように錯覚させてくれます。

満州国は短命に終わり、樺太や台湾も現在では他国の領土になりましたが、かの地で多くの日本人が生活していたことを、決して忘れてはなりません。引き揚げの際に命を落とした多くの同胞のためにも、歴史を知って、彼らが確かに生きていたということを、胸に刻みましょう。

あなたも戦前の路線図で、かつて実在した王道楽土の世界を、旅してみませんか?そして、切符一枚でパリやロンドンまで旅行できた時代を追体験してみましょう!

出張買取も宅配買取も「鉄道本舗」にお任せください!

鉄道本舗では、鉄道グッズ専門店ならではの高価買取で、「丁寧な査定」「親切なサービス」をモットーに、お客様に満足していただけるように買取サービスの対応をさせていただきます。

社長の石川自らが広告塔となり、自身の趣味である鉄道好きが高じて始めた事業であるため、社長の鉄道への愛情が満載の企業です。

また、「これって売れる?」と現地で相談しながらの買取ができるため、お客様との間に安心感と信頼関係が芽生えるのも弊社の魅力の一つ。多くのお客様に定評をいただいております。

<鉄道本舗の特徴>

  • 全国どこへでも出張買取に対応
  • 鉄道模型、部品、資料の高価買取
  • 遺品整理、残留品にも対応
  • 鉄道愛溢れるスタッフ

鉄道本舗では、買取時に鉄道トークを交えつつ楽しく「売るもの・残すもの」が決められます。お客様が大切にしてきたものだからこそ、一緒に慎重に考えていきましょう。

そして、大切な鉄道グッズを真心を込めて親切丁寧に高価買取させていただきます。どんなお問い合わせでも、ぜひお気軽にご相談ください!